- 幼少時代
-
河内村生まれ。(旧名:現在の白山市河内町)
山・自然に恵まれ、少年時代は野球づけだった。
夏は川遊び、冬はスキー。
過疎地ならではのオープンな地域でプライバシーは皆無に等しかった。
近所の人に叱られたり、慰められたり、ほめられたりと常に誰かが見ているという、心豊かな古き良き日本のコミュニティがあったのを憶えている。
旧家のニ男一女の長男として生まれ、兄弟のお手本になるようにと常に意識していたように思う。
- 小学校時代
-
少年野球に明け暮れていた。
「河内少年野球クラブ」ショートで4番だった。
低学年もメンバーに入れないと成立しない弱小チームだったが、野球ができるだけで楽しかった。
6年生には小学校の児童会会長に任命され、この頃から人前で話すことの訓練ができたと思う。
- 中学校時代
-
1年生のとき星があまりにもきれいだったので、夜、近所の友達と学校の理科室に忍び込み、天体望遠鏡を持ち出して星の観察をした。
あのときみた星は今でも忘れない。
私の長男も天体(星)好きになったのは、影響しているからだろうか・・と最近思う。
今でも、銀河の里(キゴ山)で星の観察のイベントがあると必ず出席している。
3年では生徒会長 軟式テニス部部長をしていた。
当時のテニス部は、生徒が中心となって練習メニューを考えて実践していた。
結果、石川郡大会で個人優勝、石川県大会個人戦ベスト8と実績を残すことができたことは、とても満足している。
また、生徒数が少ないので、個人的に陸上部をかけもちしていた。
石川郡大会100m走、200m走、幅跳びと3種目で個人優勝し、男子総合優勝することができた。
この頃から父が河内村村長だったので、リーダーになることを強く意識していたように思う。
河内村では、保育園から小中学校まで1クラスしかない。
同じメンバーで18年間共に過ごした濃い絆があったと思う。
- 高校時代
-
自宅から1時間かけて3年間通う。
45分かけて野々市までバスで通い、そこから学校まで自転車で15分かかった。
体力には自信があったし、特に脚力を試したかったので、陸上部に入部。
短距離4×100mリレーでアンカーを走った。
石川県2位、北信越大会に出場することができた。
2年3年とメンバー5人でロックバンドを組んでいた。
名前は「スキャンダルス」。
ベースギターを担当し、吉川晃司のコピーが得意で市内スタジオで何度かライブを開催した。
他4人のメンバーとは今も付き合いがあり、集まると、昔を思い出してカラオケで吉川晃司を歌ったりしている。
父親からは、部活動はちゃんとしろと言われたが、勉強に関しては一度も強制されなかったことを憶えている。
勿論、バンド活動にも一切口出しはなかった。
高校卒業記念にシカゴ大学の見学で、父親とアメリカへ行き、ロサンゼルスからワシントンまで横断した思い出がある。
18歳の私には刺激的であった。
暖かいマイアミビーチを出て翌日着いたワシントンでは雪が降っていた。アメリカ大陸の広大さに驚いた。
- 大学時代
-
家を初めて出る。一人暮らしの始まりだ。
飯、掃除、洗濯全て自分でやらなければいけない。
母親のありがたみがわかった。感謝の一言である。
当時得意な料理は、玉子だけの焼き飯や具なしのカレーをよく作って食べていた。
小さいときから、団体競技(チーム)に憧れがあったのと、戦術がゲームを左右すると聞いていたので、
以前から興味があったアメリカンフットボールに挑戦した。
3年の秋からディフェンスチーム キャプテン(司令塔)として、
チーム勝利のため懸命に守り続けた。
東海2部リーグで優勝争う。
この頃、色々なアルバイトを経験する。
例えば、
建設工事現場、宅配便のおにいさん、飲食店等々
様々なアルバイトを経験し、
色んな職種の先輩の方々とのふれあいから
社会性を育むことができたと思っている。
全てにおいて、身につくことや得るものがあったと実感している。
経験を大切な自分の宝物にするには、
自ら好奇心を持ってチャレンジすることから
始まると思っている。